信州旅行2020【2日目】

皆さんこんにちは、こんばんは☺︎

今日は信州旅行の2日目のお話をしたいと思います。

一泊目の旅館「かよう亭」(石川県)から、福井県にある「東尋坊」へ向かいました。

当初は「輪島」に行く予定でしたが、旅館から3時間近くかかるのと、次の宿が長野県ということもあり断念しました。

道中は山と田んぼが沢山あって、のどかで気持ち良かったです。

「東尋坊」までは車で50分程度で到着しました。

福井県【東尋坊】

駐車場は1回500円でした。駐車場から東尋坊に行くまでも商店街のようにお店がたくさんありました。

この日は37°C前後あったので、東尋坊に着くまでがとてつもなく暑くて崖の下まで降りる気にはなりませんでした😔

実際はこのすぐ横に階段があり下れるようになっています。

下から見上げると崖が迫力あるそうです。遊覧船も出ていました!

「東尋坊」の名の由来は、乱暴あるいは恋愛関係で恨みを買って此処から突き落とされた平泉寺(勝山市)の僧の名前からきているそうです。

由来や伝承は複数ありますが、雄島の大湊神社では以下のような由来を紹介しています。

昔、平泉寺には数千人僧侶がいた。その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした。東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった。東尋坊はまさにやりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていた。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合った

そんな寿永元年(1182年)4月5日、平泉寺の僧たちは皆で相談し東尋坊を海辺見物に誘い出す。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった。その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた。東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送った。この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあった。 それから49日の間、海は大荒れとなった

Wikipedia

何とも怖い言い伝えですね…

ご存知の方も多いかと思いますが、自殺の名所としても知られています。

もう少し崖の方の写真を撮っておけば良かったです😢

愛知県【名古屋城】

「東尋坊」から「名古屋城」までは車で3時間近くしました。

(宿から輪島までは遠いですが、東尋坊からは次の宿に近づきました!)

「名古屋城」には初めて行きましたが中を見ることができなかったのでとても残念でした😔😔

「名古屋城」の金鯱を見ることができたので良しとします。笑

暑すぎたので名古屋城の周りを一周した後は入り口付近にあるお土産屋さんでかき氷を食べました☺︎

(残念ながらかき氷を食べても全然涼まなかったのですが…😢)

金鯱(きんこ)

調べていたら金鯱について出てきたのでご紹介しますね。☺︎

1612年(慶長17年)に名古屋城天守が竣工した当時の金鯱(きんこ)の高さは約2.74m、一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれています。

金箔張りではなく金板で造形しているのが特徴だそうです。

その後、尾張藩の財政が悪化したことに伴い、1730年(享保15年)、1827年(文政10年)、1846年(弘化3年)の3度にわたって鯱の金が利用され、金板の改鋳を行って金純度を下げつづけました。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張ってカモフラージュをしたそうです。

金鯱は江戸時代、明治時代に続けて盗難にあっていたそうで、この金網は難防止や鳥避けのためとされていました。

この金網は戦災により焼失するまで取り付けられていたそうです。

その後、金鯱は1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められました。

1872年(明治5年)に開催された湯島聖堂博覧会への出品、雄鯱は石川・大分・愛媛などで開催された博覧会へ出品、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品されています。

雌雄ふたつの金鯱が大天守に戻ったのは、1879年(明治12年)2月のことです。

名古屋城の金鯱は、徳川の金鯱の中ではもっとも長く現存していましたが、1945年(昭和20年)に起きた名古屋大空襲で焼失しました。
金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還されています。

名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜加工して保存してあるそうです。

なお、現在の金鯱は1959年(昭和34年)の天守再建時に復元されたもので、一対に使用された金の重量は88kgとなっています。

さいごに

いかがでしたでしょうか。

やはり「金鯱」は江戸時代、明治時代を生きていた人たちには、とても高価で喉から手が出るほど、欲しがる人が多かったでしょうね。😳

2日目は移動の時間が長くてあまり見て回ることはできませんでした。

(途中で「道の駅」を楽しんでいますが写真を撮っておらず…😔)

「東尋坊」と「名古屋城」しか見れませんでしたが、充実はしていました!

山中走っているだけでも楽しいですしね☺︎

次回は信州旅行2020【3日目】のお話をしたいと思います。

それではまた次回お会いしましょう。